【保存版】羽田野龍丈先生インタビュー完全公開|ハイボルテージの第一人者が語る「失敗」と「覚悟」の真実

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目次

  1. 羽田野龍丈とは何者か?
  2. 幼少期:泣き虫少年の原点
  3. 格闘家への道と挫折
  4. お坊さんの家系に生まれて
  5. 接骨院との運命的な出会い
  6. 開業6ヶ月で資金ショート!?
  7. ハイボルテージとの出会いが人生を変える
  8. 全国へ!セミナーで広がるハイボルト
  9. 分院展開での失敗と成功
  10. 電気治療協会の立ち上げとその意義
  11. 治療家業界の未来へ:教育と地域貢献のビジョン
  12. 羽田野流「自分を信じろ」の哲学
  13. まとめ:走り続ける人生こそ、治療家の鏡

羽田野龍丈とは何者か?

ハイボルテージ治療の第一人者として、全国の治療家から絶大な支持を集める羽田野龍丈先生。電気治療の普及と技術向上に尽力しながら、現場でも後進の育成に努める“走り続ける治療家”だ。今回は、武蔵野メディカルチャンネルによる特別取材の様子を、ありのままに完全公開する。

羽田野先生の人生には、数多くの「失敗」がある。しかしそれは、挑戦と学びに満ちた“経験”の積み重ねでもある。本記事では、羽田野先生の幼少期から現在に至るまでの軌跡を紐解き、治療家としての哲学、開業時の苦悩、そして未来への構想を深掘りする。


幼少期:泣き虫少年の原点

「毎日、泣いて帰ってきてたそうです」
羽田野先生は、自身の幼少期をこう振り返る。

小学校時代、とにかく悔しくて泣いていたという。ガキ大将との喧嘩ではワンパンでノックアウトされ、小さな体ながらも「負けてたまるか!」と内に秘めた闘志を燃やしていた。生意気なチビ代表。喧嘩に負けても、家に帰れば“どうすれば勝てるか”を真剣に考えるような少年だった。

中学では142cmほどの身長しかなかったが、少林寺拳法、柔道へと進み、格闘技に夢中になる。血の気は多く、サンドバッグを自宅に設置して打ち込みの日々。「喧嘩はしなかったけれど、自己防衛のために鍛えた」と話す姿に、治療家としての原点が見えてくる。


格闘家への道と挫折

大学では日本拳法を始め、プロ格闘家を本気で目指していた羽田野先生。しかし、運命の転機が訪れる。大学2年時、鎖骨下脱臼を起こし、合計12回も脱臼を経験。そのケガにより、プロの道を断念せざるを得なくなる。

「でも、このケガがなければ、今の師匠には出会えなかった。治療家になろうとも思わなかった。」

そう語る羽田野先生は、治療の力で再び肩を動かせるようになった。その経験が、今の治療技術の根幹にある。


お坊さんの家系に生まれて

じつは羽田野先生、家系的には“お坊さん”になる道が決まっていたという。祖父が住職で、小学校1年時には高野山大学への願書が届いていた。

結局そのまま高野山大学に進学し、資格を取得。第15代目住職に就任するも、心は別の道に向いていた。

「坊主丸儲けって言われるのが嫌だった。だったら、自分の力で稼げる職業で生きていこうと思った。」

そんな思いで選んだのが、「接骨院」という世界だった。

接骨院との運命的な出会い

羽田野先生が“治療家の道”に進む直接のきっかけとなったのは、大学2年時に起きた「肩の脱臼」だった。正確には鎖骨下の脱臼で、これがなんと12回以上も繰り返された。

「ボールも投げられない、懸垂もできない。もう格闘家としては終わった、そう思いました」

この時期、プロ格闘家への道を真剣に考えていた羽田野先生にとって、夢が崩れる衝撃の出来事だった。

だがこの怪我こそが、転機となる。

怪我の治療を通して、ある治療家と出会い、そして身体の機能が回復していく奇跡を自らの身体で体感したのだ。

「治療ってこんなに人を変えるんだ、と思った」

しかもその治療家の先生は、いい車に乗って、地域に慕われ、治療で人を救い、生活も豊かだった。

「いいことして、金も稼げる。かっこよすぎたんですよ」

この出会いが、「お坊さんの道」から「治療家の道」への大きな方向転換となる。

そして、決意する。

「この道なら、誰にも後ろ指さされずに堂々と稼げる。そして、人の役にも立てる」

格闘の道を断念してなお燃え続ける情熱は、接骨院という新たなフィールドで本格的に花開いていくことになる。

この“運命的な出会い”がなければ、今の羽田野龍丈は存在しなかった。


開業6ヶ月で資金ショート

華やかなスタートとは裏腹に、開業後すぐに苦難が訪れる。なんと6ヶ月で資金が底をついたのだ。

理由は、「保険診療の支払いタイムラグ」「人件費の先出し」「経費感覚の甘さ」など、典型的などんぶり経営によるもの。

「全部経費だと思ってた。ストレッチポールを無駄に買ったりして。」

社保も厚生年金も整っておらず、家族にも言えず、ある月の支払いができないという事態に直面。そこから人生を再設計する羽田野先生の姿が始まった。


ハイボルテージとの出会いが人生を変える

資金ショートという崖っぷちを乗り越え、羽田野先生に新たな転機が訪れる。

それが「ハイボルテージ」との出会いだった。

開業当時、外傷患者の治癒がうまくいかず、試行錯誤の日々が続いていた羽田野先生。そんな中、ある医療機器メーカーから紹介されたのが「ハイボルテージ機器」だった。

「これ、何が治るんですか?」と質問すると、担当者の答えは――

「なんでも治ります」

今思えば営業トークかもしれないが、この言葉が羽田野先生の心に火をつけた。

「治らないわけがない」と信じ、徹底的に研究。マニュアルもなく、セミナーもない時代、自らの臨床現場で仮説と検証を繰り返す日々。

「思い込みですよ。でも、思い込みでも結果が出れば正解なんですよ」

この情熱と行動力が、のちに“ハイボルトの伝道者”と呼ばれる礎になった。


全国へ!セミナーで広がるハイボルト

当初は「セミナーはやっていない」と言っていたメーカーも、羽田野先生の治療実績に驚き、講師としての登壇を依頼するようになる。

「え、俺がやるの?」

開業2年目、セミナー未経験。

それでもやると決めた以上は全力。毎月第2日曜を“羽田野セミナーの日”と決め、全国各地でハイボルトのセミナーを開催。

最初は1分100円しか取れなかった施術料金も、セミナーを重ねるうちに自信がつき、正当な対価をもらえるように。

「アンケートの“感謝の声”が自信になりました。俺、業界変えられるかもって」

こうして羽田野先生の名前とハイボルト技術は、治療家の間で爆発的に広がっていく。


分院展開の失敗と成功

羽田野先生は、自身の接骨院を拡大すべく、分院展開を進めることに。

だがここでも波乱の連続だった。

温浴施設への出店、都内への進出、大規模な設備投資…気づけば内装・機器・人材費用だけで数千万円が消えていた。

「どんぶり勘定もいいところ。あの時は“左ハンドル乗って浮かれてた”」

社保・厚生年金も未加入、福利厚生は整っていない。

しかも、「最強の治療家を育てる」という想いのもと、休みも与えず朝練・夜練・休日セミナー同行を課していた。

「後から手紙で“暴君”って書かれました」

結果、スタッフは離職し、複数の店舗を閉鎖。まさに“谷あり谷あり”の時期だった。

だが、この経験が、のちの「ホワイトな接骨院づくり」へと繋がっていく。

「真っ白な労務環境にした今、やっと“経営者”になれた気がします」

電気治療協会の立ち上げ

羽田野先生が築き上げた「ハイボルテージ治療」という技術と哲学を、より多くの治療家に伝えるために設立されたのが「電気治療協会」だ。

セミナーを通じて、「電気の力でここまで治せる」という体験を共有してきたが、さらに継続的に学べる場所が必要だと痛感。

「技術・問診・経営。全部を学べる場所を作りたかった」

そうして設立された電気治療協会では、羽田野先生自身が技術を、理事の中村先生が経営を、そしてスリラー先生が問診を担当し、体系的に治療家育成を進めている。

現在では会員数400名超。日本全国に“志ある治療家”のネットワークが広がっている。

「僕らの最終目標は、電気治療を地域インフラにすること。小学校の運動会に“ハイボルト持った治療家”が参加する未来を作りたいんです」


治療家業界の未来へ:教育と地域貢献のビジョン

「整骨院の社会的地位を上げたい」

羽田野先生は、開業以来一貫して“社会貢献としての治療”を訴えてきた。

「保険診療だけに頼るんじゃなくて、自費でしっかり治療して、患者さんに喜んでもらう。これが本来の治療家のあり方だと思ってます」

さらに、地域活動としての治療家のあり方も提言。

  • 小中学校の運動会に常駐する
  • 地域のイベントで無料施術ブースを出す
  • 子どもたちが“なりたい職業100”に治療家を入れる

「“痛みを取ってくれる近所のおじさん”が、子どもたちの憧れになれば、それが僕にとっての最大の勲章です」


羽田野流「自分を信じろ」の哲学

羽田野先生が人生を通じて大切にしてきた言葉――

「自分を信じろ」

過去、歌舞伎町の勉強会で出会った先輩に言われた言葉がきっかけだった。

「TTP(徹底的にパクれ)じゃダメなんだよ。トップに立つ奴は、自分の頭で考えて動いてる」

それ以降、羽田野先生は「人と同じ道」より「自分の信じた道」を選んできた。

  • だからこそ、他人がやっていない救急車型の訪問治療にも挑戦
  • だからこそ、自費診療への転換にもブレなかった

「人が歩いているところを、自分は走ってる。だから人の3倍こけるけど、3倍速く経験できる」

この“走る人生”こそが、羽田野龍丈という男の生き様そのものである。


まとめ:走り続ける人生こそ、治療家の鏡

羽田野先生のインタビューは、単なる成功談ではない。

  • 資金ショート
  • 社保未加入
  • スタッフ離脱
  • 分院閉鎖

こうした“失敗”の中にも、必ず学びと改善があり、そして前に進む力があった。

「何回でもこければいい。走ってる奴は、こけるもんなんだ」

この言葉に、これから開業を目指す全ての治療家が背中を押されるはずだ。

あなたが迷っているなら、まずは一歩を踏み出そう。 そして羽田野先生のように、走りながら学び、こけて、また起き上がる。

それが、治療家としての本物の道だ。


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